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「ダメな部分も自分の一部」について考えてみた

「ダメな部分も自分の一部」について考えてみた

自分についてダメな部分がある

…言い換えると、
 自分では“こうありたい”と
 思っている姿、レベルがあって
 そこに到達していない

と自分的に“ダメ”だったりする。

それを誰かが
 「そんなことないよぉ」と
言ってくれたりする。

フォローしてくれる気持ちは有り難いけれど
自分的に“ダメ”なものは“ダメ”なのだ。

その“ダメ”をどうのこうのしようと
しようと思わなければ、シンプルに

 「こんな“ダメ”な部分があるんだ」

位に受け取っているのだけれども

うすうすこの(“ダメ”の)ままじゃ

 “いけない!”

と思い始めたとき、

本人誰かに言われなくても
しんどい…現状から理想へと
チャレンジが始まるからだ。

チャレンジが始まったということは
現状(の“ダメ”)と理想(の納得出来る自分)との
融合を始めると考えるとどうだろう。

そもそも、
ダメな部分も、理想の状態も
自分のこと。

そもそもが
“ダメ”を批判したところで、
それそのものが
 自爆行為で
かつ、
 自縛行為
なのだ。

ああ、今自分の“ダメ”さに気づいて、

“ダメ”さと共に居るんだなぁ

と自分の一部であることを
認めてみる…
別に取り外すものでも、切り取る類のものでも無い。

認めてみると、あとは、
どう成長させるか、
どう変化させるか。

自分をそして、
誰かを“責める”とき
心の中では、
自分と切り離そうとする。

…仮にどんなに過失があったとしても

 追及すれば敵対する。
 敵対すれば建設的な話にはならない。

他人であれ、自分であれ。

何かを責めるとき、無意識的には
自分にも“責め”がある
と気づいているのかもしれない。

もしかすると、その“責”を
自分から切り離すために
だれかを“責め”ているとしたら…

で、自分の“ダメ”は、
結果自分への“責め”
それを切り離そうとしても
自分の事なんだから、
結果切り離せない。

あぁ…自分の一部だからね…一緒に成長する。
ここからの人生自分の“ダメ”さとも
同道するのが良さそうだ。

そして、それが、人として、
 人生の中の『味』
 になれば
さらにいいんじゃないかな

なにせ、何十年も一緒に居るのだから

(初出 アメブロ“ひじま・まさき”のブログ 2016.10.28 一部改編)
http://ameblo.jp/awakeners/

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